2021年1月の読書記録

 昨年は一時帰国中で本が容易に手に入ったこと、
在宅勤務で時間が有効に使えたことから、
上海赴任後に遠ざかっていた読書習慣を取り戻すことができた。

去年の秋に上海に戻ってきたため、
今は日本から持ってきた本と電子書籍で買える本しか読めないが、
元旦には週1冊ペース計算で、年間52冊以上を読む目標を立てた。

先月は通勤時間や昼休みを使ってうまく読書時間を確保できたと思う。
1月は以下の6冊の本を読んだ。簡単に感想を書いていこうと思う。

・吉野源三郎「君たちはどう生きるか」岩波文庫(1937年)

旧制中学2年生のコペル君が様々な出来事を経て精神的に成長していく様と、
その話を聞いた叔父さんが将来のコペル君に向けて書き綴ったノートの記述
という体での補完が繰り返されながら物語が進行していく。

作中のコペル君は自分が広い世の中の一存在であることを自覚するに始まり、
人間の生活は見ず知らずの無数の他者との関わりに支えられていること、
自分自身で自己の行動を決定する力があることが人間の強みであること
を自身の経験とおじさんの助言から学んでいく。

単に倫理・道徳を説くのではなく、
どういった社会科学的な認識の中で人は生きていくべきかという
視座を与えてくれることが80年たった今でもこの本が読まれている
理由ではないかと思う。

・魯迅著、竹内好訳「阿Q正伝・狂人日記他十二篇(吶喊)」岩波文庫(1922年)

魯迅は医学の西洋化によって中国を近代化する事を志し、
仙台の医学校に留学していたが、授業の合間に
日露戦争下でロシア軍のスパイと疑われた中国人が
日本軍に処刑される瞬間のスライド写真を見たことで、
中国の革新に必要なのは肉体の健全化=西洋医学ではなく、
精神の健全化=文学であると悟る。

途中、文学の道を挫折しかけるなど、紆余曲折はあったものの、
こうした経緯で書かれたのが魯迅の処女短編集「吶喊」である。

上記の経緯は本書の自序に魯迅自らが記しているものであるが、
これを踏まえて本書の短編を読むと、
作品の根底に無知蒙昧な民衆に対する啓蒙の念が
込められていることが理解できる。

また作中での中医学や迷信的な民間療法に対する描写からは、
中医学によって父の病気が治らなかったばかりか、
高価な漢方薬代のせいで家計が傾いた魯迅の私怨が強く表れていると感じた。
 
※本の内容とは関係ないが、上海にある紹興料理屋に「孔已乙」というのがある。
  店名の由来が本書に収録されている短編のタイトルだという事を本書を読んで
  ようやく知った。(紹興は魯迅の生まれ故郷で、紹興酒の一大産地)

・谷川俊太郎「ひとりぐらし」新潮文庫(2001年)

詩人、谷川俊太郎のエッセイ集。
本書はあまり深く考えずに読み進めていたが、
「言葉めぐり」の「生」の章に出てきた以下の記述が心に残った。

私の作に「生きる」というのがあって、 
これは予想外に多くの読者に恵まれているようです。 
ここでは私は生きることの手ごたえを現在の一瞬に求めようとしていて、 
過去と未来はほとんど無視されていると言ってもいい。 
つまり、歴史から浮揚できる一瞬とも言うべきときが人間にはあって、 
詩は基本的にそういう時間とも言えない瞬間に属している形式ではないか。 
それは日常の目から見れば非現実的な瞬間ですが、 
そういう瞬間に励まされながら、人間は長い一生を生きるものでもあると思います。
生きることの手ごたえを
日常から浮揚した非現実的な一瞬に求めるというのは、
感覚的に思い当たるところがあるし
そういう瞬間に励まされながら日々を生きているという実感もある。

自分にとって日常からの浮揚というのは主に旅をする中で感じるものだが、
新型コロナウイルス禍のニューノーマルな日常の中では
すっかり縁遠いものになってしまった。
また自由に各地を行き来できる日々が早く戻る事を祈るばかりである。

・前野直彬「漢文入門」ちくま学芸文庫(1968年)

現在の漢文訓読法が成立するまでの歴史と、
外国語をそのまま日本語として読み下すという
漢文訓読の特異な手法によって生じる留意点について書かれた書籍である。

自分にとって特に興味深かったのは、
中世のお家学の隆盛、仏教宗派の多様化に伴い、
他の家系や宗派に伝わらないよう暗号的な訓読技法が
乱立して用いられていたという点である。
現在、我々が知る訓読法が確立されたのは
つい150年ほど前、近代教育制度が整備された明治時代であった。

また、本書では外国語を書き下し文で解釈するが故に
原文の意味を取り違える危険性について繰り返し述べられている。
これは漢字が表意文字であること、日本人がなまじ漢字を知っているが故
起こることであるが、漢文に限らず、表音文字で外来語をそのまま取り込んだ
カタカナ語においても原語からかけ離れた解釈に至ってしまう可能性が
あるのではないかと思った。

今まさに中国語に四苦八苦している中で、
外国語はその文化圏の前提を共有していなければ、
本当の意味で理解できないという事を強く実感している。
外国語を柔軟に取り込んできた日本語の良さは認めつつも、
インスタントな理解に陥らないよう気を付けたい。

・土門拳「死ぬことと生きること」みすず書房(1974年)
写真家、土門拳のエッセイ集。
報道写真家を志して写真館から夜逃げならぬ朝逃げを果たした青年時代、
モチーフへの執着を窺わせるエピソード、絶対非演出のスナップ写真へのこだわりなど、
土門拳の写真論・人生論が色濃く詰まった一冊であった。

元々、土門拳という写真家についてはあまり詳しくなく、
「古寺巡礼」「室生寺」など、どちらかと言えば静謐な写真を
撮るイメージが強かったので、文中から伺える熱量に驚いた。

土門に言わせればカメラは道具に過ぎず、
写真を撮るのはあくまで人間であり、思想である。

何をどのように撮るかに表出する撮影者の個性を最重視し、
漫然と撮られた写真は「チョロスナ」と切り捨てる。

近年の撮影機材の進歩は著しいものがあるが、
良い写真を撮る秘訣は、土門が30年以上前に語っている以上のものはないように思う。
即ち、とことん撮ること、偶然を掴み取るまで撮影をやめない忍耐強さである。

自分も一写真趣味者であるが、
良い写真をと思うとついつい機材や小手先の技法に頼りがちで、
本書で語られているような精神的な面がおざなりになっているなと反省した。

春節休みはカメラを持って出掛けてみようと思う。

・Tak.「アウトライナー実践入門」技術評論社(2016年)

本書はWorkflowyやMicroSoft Wordといった
アウトライナー機能を持つアプリケーションの紹介と
思考ツールとしての活用法をまとめた書籍である。
千葉雅也氏の著書「勉強の哲学 来たるべきバカのために」で
本書が推薦されていた事がきっかけで手にとった。

本義的なアウトライナーは
執筆前にあらかたの筋書きと方向性を定めるためのものであるが、
本書ではトップダウンとボトムアップを行き来(シェイク)しながら、
見出しや細目という枠組みを超えて自由に文章と思考を組み替え、
思考を深めていく事を提唱する。

個々の断片としてのアウトラインを
自由に組み替えながら新しい発想に至るという点は、
梅棹忠夫の「知的生産の技術」で紹介されていた
情報カード式整理法に近いものがあるのかなと思った。
アナログとデジタルどちらにもそれぞれの利点があるから
組み合わせて使うと面白いかもしれない。

自分自身、考える/書くうちにとりとめなく思考が広がっていってしまう
「行き当たりばったり」タイプであるため
本書でいうシェイクは無意識に実践していたが、
(余儀なくされていたという方が近いかもしれない)
そういう思考法に適したツールの存在を知ることができたのは有意義であった。

読了後、早速Workflowyを使っている。



以上

コメント